八朔祭りと三つ粒雨
雷 峰右衛門
屠胴塚のドンニム狐
烏峠稲荷神社の金の幣束
デロ地蔵
瀬知房淵の河童
十軒のゴンボ猫


 泉崎村には、ずっと昔、土地を切り開き始めた時からの地名が残ってい ます。それは、三ツ屋、四ツ屋、十軒などです。そのうちの十軒は、特別 大きな部落でした。
 亨和の頃(江戸時代)、この十軒のある大きな家で、一匹の猫を飼って いました。  この猫は何才になったか誰もわからないほどの年寄りで、太く白いひげ と、とがったあごを持っていました。そして、この家の子どもが生まれる ずっと前から住みついていました。この猫のしっぽは、ゴボウのように細 かったので、家の人たちは、いつも「ゴンボ猫」と呼んでいました。
 ゴンボ猫は、暖かい日には日当たりの良い縁側や庭にしいてあるむしろ の上に目を細めて居眠りをしていました。また、寒い日には、いろりのそ ばにすわっている主人のひざにあがりこんで、気持ち良さそうに眠ってい ました。  いつも、朝から晩までとろとろと眠ってばかりいるので、家の人たちは、 年をとって動けなくなってきたのだろうと思って、なおいっそうかわいが っていました。
 ところが、いつのころからか、このゴンボ猫は、夜になるとどこかに姿 を消すのか見あたらなくなりました。家の人たちは、ネズミを取るのにど こかすみの方にでもかくれているのだろうと思って気にもしていませんで した。それは、夜が明ける前には必ず家にもどっていたからです。そして、 ずっとこんな日が続きました。
 ゴンボ猫を、とてもかわいがっていたこの家の主人は「どうもおかしい ぞ、ゴンボ猫は毎晩どこに行くのだろう」と、ふしぎに思ってある夜、こ っそりと猫のあとをつけました。
 猫は林の奥に通じる一本の細い道をどんどん入って行きます。  主人も猫に気づかれないように少しはなれてついて行きます。すると、 林の奥の原っぱに、おおぜいのたぬきが集まっていました。たくさんの木 に囲まれたその原っぱをお月様が明るく照らしています。主人は大きな木 のかげにかくれて、原っぱをじっと見ていました。すると、たぬきたちは、 何やら歌を歌いながらおどり始めました。でも、うまくおどれません。
「十軒坂のゴンボ猫が来ないうちは、おどりがそろわないよ。早く来ない かな」と、大きなたぬきがつぶやきました。そこに、ゴンボ猫がうれしそ うに息をはずませながらやって来て、「そばがきが、あんまりあつくてす ぐに食べられなかったんだ。遅くなっちゃったよ」  すると、一匹の大きなたぬきが、「猫さんの舌ではしょうがないさ」と、 言って笑いました。(あついものを食べられない舌を猫舌といいます)  たぬきたちは、ゴンボ猫が来ると、たいへん喜んで、みんな楽しそうに おどりつづけました。
 このようすを見ていた主人は、たいへん驚きましたが、猫に気づかれな いように、そっと家に帰って来ました。
 ところが、どうしたことか、この夜以来ゴンボ猫は、この家には帰って きませんでした。
                         話者 遠藤 エン
このページのTOPへ


 泉崎村の瀬知房の南、ゆるやかな阿武隈川の流れに沿って淵があります。  昔、この淵には河童が住んでいました。その河童は、淵のまわりに野放 しで飼われている馬を引き入れてしまうというので、村の人達は、馬を野 放しにしないようにしていました。  この瀬知房の部落でも野放しの馬が、何頭か見えなくなっていました。  しかし、河童の姿をはっきりと見た人は、ほとんどいませんでした。
 その頃、瀬知房に住んでいたある人は、茶色の大きなすばらしい馬を飼 っていました。  そして、それをたいへん自慢にしていました。「わしの馬は、このあた りではくらべものがないほどのすばらしい馬だ。河童なんか来てもビクと もしない。今年は、馬を野放しにしておいてやれ」と、わざわざ野放しに しておきました。
 これを見た河童は、 「しめしめ、馬が野放しになっているわい。また一頭手にいれられるぞ。 手づなをたぐって川に引き入れてやれ」と手づなをぐいとひっぱりました。  いつもなら簡単に川の中に引き入れてしまうのに今度はどうしたのでし ょう。反対に馬が河童をひっぱって陸に引き上げてしまいました。そして 河童が手足をバタバタ動かしてもがくのもかまわず、とうとう家まで引っ ぱって来たのです。
 このようすをみた主人は、 「さすがにこの馬はすばらしい。やっぱりわしの思っていた通りだ。さて、 あいつを少しこらしめてやろう。そうだ。河童は珍しい宝物を持っている と聞いているが、ほんとうだろうか。ひとつたしかめてやろう」と思って、 河童に向かって言いました。 「お前は、今まで何頭もの馬を淵に引き入れ、今日はわしの馬を引っ張り 込もうとした悪い奴だ。命をもらうところだが、お前の持っている宝物を わしに渡すなら、命は助けてやろう」。
 河童は、しばらく考えていました。
 でも、もうのどはからからで、からだの色も緑色から灰色になってきま した。仕方なく、しばらくしてから、ピカピカ光る玉を取り出すと、主人 に渡しました。 「この玉を差し上げますから、どうぞ助けてください」  主人は、玉を受け取ると、約束通り河童を川に帰しました。  その玉は、今までに見たこともない美しいものでした。主人は宝物の箱 に入れて、毎晩ながめていました。
 ところで、この主人には、子どもがありませんでした。それで、いつも かわいい子どもがほしいものだと思っていました。  ところが、このことがあってしばらく過ぎて男の子が生まれました。主 人は、たいへん喜んで大切に育てました。  子どもは、とてもかしこい子でしたが、十五歳になっても歩くことがで きませんでした。父と母は、とても心配してあちこちの医者をたずねまし たが、むだでした。
 ある時、この子どもが父母に言いました。 「宝物の入った箱を背おわせてください。もしかすると、立てるかもしれ ません。」  父と母は、いくらすばらしい玉が入っているといっても、まさか立てる ようになるとは思いませんでした。でも子どもの願いを聞き入れて、その 箱を背おわせました。  すると、どうでしょう。今まで立てなかった子どもが、まるでうそのよ うにムックリ起き上がりました。父母は、驚きと喜びで声も出ません。  子どもは、門を走り抜け、いちもくさんに瀬知房淵の方へ走って行きま した。我にかえった父母も急いでそのあとを追いかけました。
 子どもは、淵まで行くと、ザブンと水に飛び込んでしまいました。  父母は、びっくりして淵を見ていましたが、急に大声でわが子の名前を 呼びました。
 すると、水の中から、 「玉を取り返したぞ」と、どよめく声が聞こえてきました。そして、ワッ ハハハと笑う声が聞こえましたと同時に、水面が波になってその波は、次 第に広まっていきましたとさ。
このページのTOPへ


 あのナァ、泉崎の関和久にデロ地蔵というのがあったァど。その地蔵ち ゅうのは、でろをぶっつけてこしゃいた地蔵さまで、関和久の住吉という ところの田の中さ立ってんだと。泉崎ではナ、この地蔵を「住吉の地蔵さ ま」って呼んでいたんだど。
 昔はナァ、ここらあたりの田は、上田でうんといい米がとれるもんだか ら、みんながここらの田を作っちゃくて、さわいだもんだっちゅうことだ ったど。  そういうわけで、この近所の田は、五年に一ぺんくじで決めることにな ったんだど。
 仕事のうちでも、まんがおしや田植えの時なんど手首をひどく使うもん だから、手首が痛くなるソラデという病気になる人が、ひっきらずあった んだど。その、ソラデになった時、この地蔵さまをおがんでどろを手につ かんで、この地蔵さまに三回あげて「ソラデがなおるよう」にと、おがむ と、きみょうによくなるというんだ。それから、ソラデがおこるめいに、 どろをあげて「ソラデがおこんねえよう」におがむと、ソラデがおきない というんだど。
 田植機で植えるようになったこの頃では、ソラデになる人はいなくなっ たが、昔はずいぶんなやんだもんだ。そんで、地蔵さまにどろをあげて祈 る人が多かったんだど。
 このひたちゃあ、どんどん土をあげっから地蔵さまが段々と高くなり、 人のせいったけにもなったそうだ。そんじゃもんだから、地蔵さまのある 塚のわきの田の土がとられちゃって、田植に困ることがちょいちょいあっ たんだど。
地蔵さまにあげるどろは、普通やきめし位の大きさで、それを三回もとる んだからその量は、バカにならなかったんだっぺない。
 そだわけであんまりどろをとられっから、作ってる人は、一時塚をぼっ こし、そこさ稲を植えたことがあったんだど。そうしたら、この家の主人 が一年中手足が痛んで仕事ができなかったんで、またもとのように塚を築 いたんだど。そうすっと、それから痛くなくなってなおったということだ。  願をかけてソラデがなおっと、串にさした砂糖ダンゴや餅なども供えて お礼をしたという。
 泉崎では、住吉地蔵さまの麻糸で、一年子の人をたのんで、窓ごしにし ばってもろうとなおるといわれて、麻糸を借りる人がいたという。なおっ たあとは、麻糸を倍にして返して供えたと言い伝えられている。
 四月には、塚のニワトコもつぼみをつけ、五月には、花が咲く。  この頃になると、デロ地蔵の塚のまわりの田にも早苗が植えられ、水面 にニワトコの影がたわむれることだろう。
       話者 木野内 國一  鈴木寅 次郎  鈴木 藤左衛門
このページのTOPへ


 泉崎の都橋や富久保は古くから拓けていた部落であった。 この部落の南の山にシダレ桜の大木が一本あった。この桜は四月になると 綺麗な花をつけ咲き続けるので、花の咲く頃になると百姓は稲の種子籾を エツボ(小さな池)にひたすのが習わしであった。  それから、田に堆肥を運んで田を耕すのに忙しい時。こんなある日のこ と、この桜の樹の付近に沢山の烏が集まって声高に騒いでおった。烏の数 は増え続けた。それがために、富久保の上空は烏でいっぱいとなった。  その烏の鳴く声は何か異変を知らせるようで、無気味であった。里の人 が寄り集まって、その不思議さを感じておった。桜の樹付近を中心に舞う 烏は何を声高に騒ぐのか、おそるおそる樹の根元付近を見ると、何か黄色 に映えるものがあった。よく見ると、それは金の弊束であった。  部落の長老が、この弊束を取り上げて、「みなの衆、このようなところ に立派な金の弊束がある。この弊束をどうしたらよいだろうか」と、部落 の者にはかったところ、「これは、私し、すべきものではない。泉崎の守 り神様の峠に納めよう」と、決めたので、この弊束を烏峠稲荷神社に奉納 した。  烏が守った弊束なので峠に奉納した。これから烏峠と名付けたという。                          話者 小林 一夫
このページのTOPへ


 ドンニム狐は屠胴塚の穴に棲んでいた。白い髭のある品の良い男狐であ ったので「ドン(殿)」という敬称で呼ばれていた。  このドンニム狐が、蕪内のオマン狐(女狐)を嫁にすることになった。 オマン狐の嫁入りの時、その行列は狐の提灯をつけて、それはそれはきれ いなものであった。  ほどなく、オマン狐のおなかに赤ちゃんができた。出産は難産であった ので、蕪内の婦人科のイモ医者を馬で迎えに行った。幸いにして医者が家 にいたので直ぐに来て出産を助けてくれた。  案内されて部屋に通った医者がフト、上を見ると夜空に星が輝いていた。  脈をとったら、人間の脈ではないことに気付いたが、そんなことはおく びにも出さずに、お産の手助けをして無事に赤んぼうを取りあげることが できた。  そのお礼にとお金を差し出された医者は、たぶん木の葉のカネであろう と家に帰って見たが、これがなんと本物のおさつであった。またある時、 この屠胴塚付近を通った滑津の人が、日中にソバ畑で「オー深けえ、オー 深けえ」と、畑を歩き廻り、とうとう畑をジンダラにふみつぶしてしまっ た。これを見ていた畑主が、あやしんで声をかけたところ、ヤット正気に 返ったという。 このようなことがたびたびあったので、ここを通る人は充分気をつけるの だが、遂には狐に馬鹿にされてしまうのだと言い伝えられている。                    話者 佐藤 与市・佐藤 ステ
このページのTOPへ


 峰右衛門は天明年間、外ノ入の穂積倉右衛門の弟として生まれ、小さい 頃から体格がよくて、力も並外れて強かったんだと。  ある年の秋のことだった。中野目って人の家で摺臼をしていだどき、そ の家の主が峰右衛門に、「お前がもし、この米俵をもてたら、くれてやる ぞ。」と言ったど、峰右衛門はものも言わずに、米俵を持ち上げたかと思 うと、スタスタと家さ帰ったという。この話は、峰右衛門が10才の頃の話 だっていうから、驚きなんだよなあ。  その他に、若者の力試し用にどこの部落にもおいてある力石を軽々とか つぐんだど。大人でさえ、でぎねってんだから、たいしたもんだよなあ。  その後、泉崎宿部落星家の養子になったんだけど、すもうが好きな峰右 衛門は、江戸(今の東京)に出て花を咲かそうという思いが頭からはなれ ない。家族のもんは、そんな思いは忘れてくれと頼むが、どうしてもあき らめられなくて、とうとう泣いて止める妻をもふりきって江戸に出たんだ と。そして、雷(いかづち)権太夫の弟子になったと。  すもうの世界では、最初シコ名を「泉崎権助」と名乗り、亭保2年に音 羽山と改名し、文化元年(1804年)三月に入幕したと。(音羽山は角 力界の御三家の一つである。)  文化五年、二月場所の四日目に当時天下無敵だといわれていた大関雷電 為右衛門と対戦し、見事に土をつけて勝星をあげたんだど。それで一躍名 力士といわれるほど有名になったと。江戸市中では、カワラ版が売れ、泉 崎の生家には飛脚がとぶという人気だったとさ。当時の狂歌に、「雷電は 雲の上かと思えども、音羽の山の下でごろごろ。」とまで歌わちゃと。  ある時、東北巡業があって、そんな時に泉崎十軒前原に土俵をつくり、 大角力の興業を行い、村の人にすもうの腕前をひろうしたど。  文化9年に師匠の名を継ぎ、雷右衛門と改命しただという。  文化11年(1814年)四月場所を最後に、入幕してから10年間の幕 内生活を引退した。最高位は前頭三枚目だったと。  引退後は、年寄音羽山となり、角界に貢献した。そして文化3年(18 21年)5月20日、おしまれながら江戸で、この世を去ったど。「数学 院真阿峰居士」がその戒名で、豊島区高田南町の南蔵院に葬られたと。  その後、生家の外ノ入の穂積勇家に位碑が贈られ、泉崎の昌建寺で供養 葬が行われた。昌建寺に当時の位碑が保存されている。  碑は踏瀬四ツ谷に建てられたがその後原山地内四号国道そばに移された。  高さ一尺の台石三重ねの上に、三尺五寸の碑が立っている。  巡業などで、この碑の前を通行する力士は、篭を下り、または下馬して 礼拝したと伝えられている。                      話者 穂積 勇・大野平興
このページのTOPへ


 八月一日は八朔で烏峠稲荷神社の祭りでもある。  昔、南北室町時代の公家や寺家が互に贈答する頼みあいの風から頼のみ の節句とも言った。この日は農家が初めて新殻を取り入れる吉日である。 八朔をえらんで徳川家康は天正十八年(一五九〇)新領土の江戸城に入場 した記念の日でもあった。  農家では収穫を祝う日で柿、桑の実など八つの作物が実るので田の実の 節供、又は極早稲が八分程実るので八作とも言った。  昔、関和久の農家では田の神祭りを行う、この日の節供には家族の数だ けカヤの箸をつくり強飯を食いお互いに助け合おうとする風習があり、そ れは田の神さまとの共同飲食をする日でもあったことがうかがわれる。  丁度この時節は台風の季節でもあり風祭りをして台風を鎮める祭りでも あったと言い伝えられる。  八朔は農作業の一つの区切りとしても重要であった。今まで途絶えてお った縄ないを始める日でもあったのでツチンボの朔日とも言う。  泉崎では、八月一日を烏峠の稲荷さまの八朔祭りで、栃木県、茨城県や 福島県南部地方の養蚕や稲の豊穣を祈る信仰の中心として大勢の人々が、 この山へ参詣に集まり豊作を祈るオコモリをしたものであった。盛大に泉 崎の民謡の「峠ぶし」を唄って夜通し踊った賑やかな八朔祭りであった。  このように賑やかな烏峠稲荷神社の八朔祭りには、どうしたことか必ず 雨が降るとの言い伝えがある。なぜ烏峠の八朔祭りには雨が降るのだろう か不思議でならなかった。  烏峠稲荷は烏峠山の頂上に在る、その山の麓にある十日の森の稲荷は泉 崎八斗蒔に鎮座しておる十日の森の稲荷は烏峠稲荷の姉稲荷で烏峠稲荷は その妹稲荷であると言う妹の烏峠稲荷が八朔祭りに盛大なるお祭りをして 祀られるのに姉の十日の森稲荷はこれに反して淋しい祀り方なので、その 祟りでこの日は三粒でも八朔には雨を降らすのだと言い伝えがある。  田村郡、都山、岩瀬郡などからの青年男女が、お参りに来る時には雨を 予想して着物の襟口にコウモリガサの柄をかけた傘を背負ったりして参詣 に来る姿は峠祭りの一つの風物詩であった。                       泉崎字富久保 小林 重
このページのTOPへ